大学入試新テストで、高校の現場はどう変わるか?

2016.01.30の朝刊各紙で、大学入試新テストに関する新しい文科省方針が紹介されています。
 
こちらは日経新聞より。

文部科学省は29日、大学入試改革を議論する専門家会議で、大学入試センター試験に代わり2020年度に始める新テストでは記述式の導入を優先し、複数回実施は見送る方針を示した。

複数回実施を見送る理由は単純です。「最短なら20日程度、最長では60日程度かかる(同紙)」可能性があるから。
 
採点者800人で受験者53万人を想定しているそうですから、1人662.5枚の答案を採点する計算です。しかも、採点結果に不平等が起こらないようにするために、福岡県立高校入試と同じシステムを採用するとすると、最低でも3重(異なる3人あるいは3つのグループ)以上の採点チェックをすることになります。
 
缶詰になって採点業務をしたとして、まぁ2ヶ月は大げさでしょうけど、1ヶ月は最低でもかかりそうな予感です。
 
ちなみに、高校入試なら社会の問題500名分を5人がかりで2日(約7時間×2日)で終えていました。
定期テストで毎回実施していた400文字の小論文を含む試験を採点するのに1枚5分弱かかっていたような記憶があります。
入試は問題数も多いわけですし、大学レベルの論述ですからね。採点にどれだけかかるか「やってみないと分からない」のは当然です。
 
本来、「一発勝負」になるのは不公平だから複数回の受験機会を与えようというのが、大きな柱だったはずですが、それが外されたことで、大いに不満が出ているようですね。
 
ただ、私としては、本来の入試改革の趣旨からすると、この決断は正しいと思います。
今の「ただまじめに教科書・参考書通りの単純な学習をしていれば合格」という、伝統的な教育を続けている限り、子ども達のサバイバル能力は養われません。そして、受験の頂点となる大学受験が変わらなければ、超公務員体質の高校教育は変わらないことが分かっているからです。
 
一年で最も寒い季節に一発勝負の試験を課すということは、「たまたま体調が悪かった」とか「そもそも寒さ耐性があるか、ないか」とか、あるいは「天候」とかに左右されてしまい、不平等感があったのは確かです。
 
しかし、この不平等はスポーツであれ何であれ多少はあることですし、そこを「平等」を優先して一番重要な部分を疎かにすることは賢明ではありません。
 
とはいえ、この思考力を問う問題については、様々な異論、反対意見があります。

  • 採点の不平等は起こらないのか。
  • 複数回受験となったとして同じ年度内の「受験回」による不平等はおこらないのか。
  • ユニークで思考力を問う問題を毎年作れるのか。
  • それで高校3年間の学業の成果を計れるのか。

などなど。
 
不思議と「マークシート試験でも思考力を問うことはできる!」という反論はあまり見かけません。このあたり、「マークシート=正解を選ぶだけの単純な出力」という誤解はあるのかも知れません。(本筋ではありませんので、ここでは触れませんが、興味がある方は講談社学術文庫『論文のレトリック』を参照してください。)
 
先日公開された試案(「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」 で評価すべき能力と記述式問題イメージ例 【たたき台】)を見ると、かつて(20年くらい前)の九州大学・法学部で出題されていた小論文試験を彷彿とさせます。
 
採点する先生も大変だろうなぁと思っていたら、その後、国語の試験に切り替わりました。
おそらく、こちらの元代ゼミ講師の鈴木氏が書いているようなことが起こったのだろうと思います。

[blogcard url=”http://eichi08.com/archives/51393254.html”]

鈴木氏のこの記事によれば、せっかくの意欲あふれる出題が次第にしぼんでいくのには、いくつか理由が考えられるといいます。

  • 1 ズバリ正解を答える受験者が少なすぎて、大学が諦めた。
  • 2 ネタが尽きて、出題者が諦めた。
  • 3 単純に、出題者が凡庸な人に変わってしまった。

また、そういった試験をすると何が起こるかということで…。

英数国のテストなら平均点を中心に得点が分散する「正規分布」になるけれど、小論文や総合問題で「ズバリ正解」が存在するものを出すと「ズバリ正解の高得点グループ」と「凡庸な答えの低得点グループ」にはっきり分かれてしまう。

これはもっともな指摘です。
 
恐らく多くの高校の先生達も、「これで高校時代の学力を測れるのか?」と考えているだろうと思います。実際、新聞などを見ても現場からの反論としてそういった声が上がっていることが分かります。
 
しかし、これは本末転倒というか、問題の根本を見誤った発想です。
「今の高校教育」を前提とすれば、「選抜として不適切」となってしまうでしょう。
 
だから、なのです。
 
こういう問題で「一部の意欲的解答を出せる生徒」と「無回答で終わりそうな生徒」の2極分化が起こるような教育を変えるために、今回の入試改革、高大接続改革が進められているんです。PISAで無回答率が非常に高い実態を踏まえて、現在、小学校で授業改善が進んでいるのと同じ構造を狙うわけですね。
 
だから、5年も前から試験の問題を提示して「これが解ける学生を育てないとダメだよ」と言っているわけです。
複数回実施を犠牲にしてでも、「この形式でいく」と強行に進めようとしている意図を、教育現場にいる先生達は汲まなければなりません。
 
こういう問題で正規分布が現れるような指導を考えなさい、と。
 
実際、すでに大手学習塾や予備校は、様々に先手を打ち始めています。
今後、そのような指導ができない小さな学習塾は苦戦するでしょう。そういう学力を育てるノウハウがなく、指導できる力量がアルバイト講師に求められなければ、市場から退散するしかありません。
 
高校教育の現場も同様です。
入試改革を高みの見物よろしく静観していれば、生徒に見放され、「高校は卒業証書をもらうためにいくところ」になりかねません。「大学に行きたければ、予備校に行くしかない」と、優秀な生徒ほど考えるでしょうから。
 
そういう試験に太刀打ちできない従来型の学力だけを身につける生徒を引き受ける大学も現れるでしょうが、そんな大学の未来がどうなるかは、なぜ今、入試改革が叫ばれているかを考えれば、予想に難くありません。
 
 
高校はまず「教科書を教える」という発想を完全に捨てなければなりません。教科書に書かれていることを解説して、そこに書かれている短答式の問題が解ければよしとする授業も。
これまでの学習指導要領が悪かったわけでも、教科書が悪かったわけでもありません。古い時代、高度成長期の頃の授業観、学力観を捨てきれなかった先生の問題です。
 
別に奇をてらった授業をする必要もないんです。思考力を鍛えるために、特別な思考のトレーニングをする必要はありません。高校の教科書レベルの知識も、思考の材料として当然必要とされますし。
 
ただ、教科書を使って、情報検索能力、統合能力、論理構築力、文章表現力などをトータルでどう養っていくのか、その明確なデザインを描いて授業に臨めばいい、ただそれだけです。
 
そして、実を言うとこのことは私が高校教師になったばかりの20年前から言われてきたことなんです。
 
つまり、教育者としてやるべきことをちゃんとやれ、と。ただそれだけの話なんですね。
 
それができていない現状があるから、入試を変えることで、それを早々に宣言することで、尻に火を付けよう、というわけです。
 
願わくは、この入試改革の真意を汲んだ教育が、公教育にもちゃんと浸透していきますように!

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フォーカス・リーディング主宰者

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