先日参加した塾の先生方の勉強会で、
すごく面白い話を聞きました。
私も教室見学にいった塾の先生のところは
小中学生限定の教室なのですが、
高校に入学したばかりの生徒さん達が、1か月ほど、
勝手に勉強をしに教室に通って来るのだとか。(^▽^*
もちろん月謝なども払ってないようで…
なんでも、その先生のことが大好きな子達が、
「ここだとモチベーションが上がる!」ということで
自習の場所として使わせて欲しい…
ということのようで。
もう1つ、その対極にあるようなお話。
私の元職場である福岡県立高校では、
猛烈な詰め込み教育でもって、
生徒をどんどん追い込んでいきます。
その結果、何が生まれるかというと、
不登校が出たり、
予習をしないとか復習をしないとか、
試験勉強すらしないとか、そんな事態が
生まれてきます。
それを補うために学校はさらなるアクションとして、
放課後課外を必須化したり、さらに放課後の
課外を2コマに増やしたり、夏休みも冬休みも
課外授業で埋め尽くしたりしていきます。
この両者の違いは何か?
目に見えるところでいえば、
学校・塾に愛着を持っているか、
拒否反応を示しているか、
その違いです。
ですが、根本的なところでいうと、
学力観がまったく違うんですね。
端的に言えば、学力を
- (どういう形であれ)学んだ結果として残った知識の量ととらえ、その「力」は「大学に合格するために使うもの」ととらえている。
- 勉強したいと思う気持ち、意欲や態度を含めて、学ぶ力そのものととらえており、その「力」は「人生(希望する進路)を切り開くために使うもの」ととらえている。
という具合に、根本的にまったく違うものと
とらえているわけです。
さらに具体的にいうと、
福岡県立高校は、
- 学力を「大学受験のペーパーテストで計ることができる知識の質と量」ととらえている。
- 教育を質の高い知識を網羅的に与え、有無を言わさず詰め込む作業ととらえている。
- 試験を「知識の精度と、その出力のスピード」を計るものととらえており、トレーニングの時間と量を増やすことで、その点数を高めることができるととらえている。大切なことは「大学に何人合格したか」だと考えている。
・・・わけです。
それに対して、生徒達に愛されている塾は、
- 学力を「生徒が学びたいと思う気持ち」で創られるものととらえている。
- 教育を、笑顔の学習支援で、生徒が勝手に勉強するように仕向けることであり、一人で出来ない部分をサポートするだけでいいととらえている。
- 試験を「そこまでに頑張ってきた自分の成果」が計られるものと考えており、大事なことは、試験の後も一人で学び続けることだと考えている。
というところ。
この学力観の相違というか
学校教育の持つ学力観こそが、
あらゆる教育的不幸の源泉だと
思うわけです。
タイトルに
「フォアグラ七面鳥」vs「野生の七面鳥」
という書き方をしましたが、
不健康ながら市場価値が高いのはフォアグラ。
ただし、そのおいしさは「それがおいしいと感じる人達」限定のもの。
それに対して野生の七面鳥は…?
そう。
そもそも商品として消費されることを
受け容れていないわけです。
気ままに自然界をサバイバルする力は
間違いなく野生の七面鳥のもの。
実際、野生の七面鳥の逞しさは
検索するとよく分かります。(笑)
さて、教育に携わる身として、
あるいは子どもを育てる身として、
育てたいのはどちらなのか?
「学力観」が変わると、学校のとらえ方も、
勉強の仕方、させ方も、すべてが変わります。
もちろん、親の関わり方も。
そこを見定めた上で、
今起こっている教育問題や、
高大接続改革の問題などを眺めると、
ひょっとすると違う風景が見えてくるかも知れません!