多様性を認めたらクラスが「崩壊」した思い出

私は高校教師時代、何かと管理職からにらまれておりました。
 
理由は「型にはまらなさすぎる」から。
 
高校2年生の担任クラスは、いわゆる私立文系クラス。
極度に勉強が嫌い、苦手な生徒が約1/3。そういえば、登校拒否も4人くらい?
全員必修の朝課外授業に43名中14名しか出席せず、進路指導主事、学年主任からたびたび呼び出され説教されておりました。
 
担任としてサボる生徒に対しては、個別面談で「サボった分、何が変わったか、よくなったか結果で示せ。」と。
逆に、ただまじめに出席していて成績が低迷している生徒には「出席することだけが目的なら来るな。その分、何をしたらいいか考えろ。」と。
 
その結果が14名。
でも、一人一人の成績を見ると確実に伸びていたんですよね〜。(^^;
 
高校3年生の担任クラスはさらにパワーアップ。
2学期になると約40名のクラスで、朝のホームルーム時に出席者9名という日がしばしば。
当然、管理職から呼び出されて説教されます。
大学進学者数(率)が他のクラスと比較して群を抜いて低いのも気に入らなかったようで。
 
生徒達は本当に自分の人生と真剣に向き合っていました(多分ね)。「大学進学ありき」という既定路線を敢えて逸れ、必死で自分の進路を切り開くべく、学校の仕組みや強制される勉強とぎりぎりのところで闘っていました。(多分ね)
 
私にとって教育とは「その子の持つ、その子ならではのよさを引き出す」こと。その子達が将来、主体的に生き、周囲と手を取り合って社会を作っていければ、それは最高の社会だよね、と。
 
だから、ユニークさは大事にするけど、掃除のような公共性の高い活動については、甘えと逃げを許しません。学校をサボるのは許すけど、自分の人生から逃げるのは許しません。「主体的にサボる」ことと「サボった結果には責任を持つ」ことを徹底させていました。
 
何にせよ、私の中ではすごくいいクラスでしたよ。どちらも。(笑)
 
でも、学校での(管理職からの)評価は「崩壊」「最低」。
今のような「学級崩壊」という言葉は、当時はありませんでしたけど。
 
ま、その教育の評価は、卒業してから20年ちかくが経つ卒業生一人一人の中で、すでに出ているんでしょうね。年末の同窓会でアンケートとろうかしら。(笑)
 
 
さて、別に懐古的にぶっちゃけ話をしたいわけではありません。
今朝の日経新聞(2015.12.07)に掲載されたいた「受け皿 学校以外にも」と題する記事を読んで、あの頃を思い出したんです。
 
不適応を起こして学校に通えなくなった子ども達を受け容れるフリースクール的な中学校の話。
なんでも、その中学校は特区制度によって正式な学校として認められているのだとか。記事を読むと、確かにユニークです。

  • 40分の授業が一日5コマ。負担が軽め。
  • 先生と生徒が対等で、先生を「スタッフ」と呼ぶ。
  • 授業中に教室を抜けるのも自由。子どもに強制しない。

授業も丁寧な個別指導をしていて、コミュニケーションが苦手な子どもも半年から1年で変化が出てくるとのこと。(「変化」がどういうものかは不明。)
 
確かに今も昔も学校に適応できない生徒はたくさんいます。ただ最近は、画一性に苦しむ子どもが増えているらしいんですな。同記事によりますと、病気や経済的理由以外で年間30日以上欠席した小中学生が12万2655人もいる、と。
 
そんな子ども達にとって、その学校は居心地のいい場所になることでしょう。
 
日本の学校では一般には「全体に合わせる」ことを美徳としますから。
校則というルールは合理的な正当性を問わず絶対であり、全体の和とか秩序こそが最重要であり、個性を殺して従うことをよしとします。
 
確かに、学校には「子どもの社会化」「社会の仕組みのインストール」という機能があります。「集団のために」という発想をすべて否定する必要はありません。
 
それにしても日本の学校には「多様性」を受け容れるシステムも先生(の発想)もなさ過ぎです。
 
自分らしさをちょっと貫こうとすると、すぐに学校のルールと摩擦が起こります。
 
そんな学校から「逃げる」場所があり、しかもそこで自分の可能性を引き出せるような学習ができるとしたら、それはとても魅力的です。

でも、その一方で「この子達が卒業した後に、本当に社会の中で才能を活かして活躍できるのかな?」という心配も残ります。
学校の持つ「社会化」という機能が、どういう形で補われるのか。あるいは、違う関わり方が育てられるのか。
 
わがままと個性、忍耐力のなさと個性は、どう区別されるのか。区別する必要がない仕組みがあるのか。
 
どうなんでしょう?
 
学校という場所は「やがて、子ども達は卒業する」という前提で、そのカリキュラムをデザインします。
 
その「卒業後のデザイン」に「社会との関わり」がどう描かれ、プログラムされているのか。
 
あるいは、親を巻き込んだ上で、最後まで「その子らしく」をつらぬいて、しかも「生きていける」力を養えるのか。「人と違う」ことに誇りを持ち、上を向いて生きていく意志力を、文化として与えられているのか。
 
 
本当は日本の社会も、そろそろ多様性を受け容れられる寛容な社会を目指さなければならないんでしょうけど、残念ながらそうなっていません。
このあたり、在日中国人で、経営者、経済評論家として大活躍中の宋文洲氏のインタビュー記事が、日本の社会を鋭く分析していて秀逸です。

[blogcard url=”http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1309/11/news002.html”]

私たちは、こういう社会の不寛容さを自覚しなければなりません。
それが子どもを追い詰めることになったり、結果として生きる力を損なっていたりすることも。
 
 
もし親として、子どもをそこから脱出させるなら、違う選択肢を選ぶ勇気、その「選択した意志」を大事にする力、一人でも生きていける逞しさと社会の中でのサバイバル能力を、セットで授けましょう。
 
逃げてもいい。
でも、ポジティブにね。
 
それを取り巻く私たちは、その人達に対して理解し、認められる寛容さを持ちたいものです。
 
p.s.
うちの息子も、二人ともとても個性的です。(笑)
この子達にたくましく生きていけるサバイバル能力をどう培わせていくか?
自分の子どものこととなると、何やら不安だらけです。(^^;

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この記事を書いた人

フォーカス・リーディング主宰者

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