子育ての必勝法はどこに?(…もないという真理)

うちの2人の息子さん。
 
兄、惟生希くん(10歳)はイクラの軍艦巻きを、
弟、悠吾くん(3歳)は化学物質をまぜて作った「イクラ軍艦巻き風のお菓子」を、
それぞれ捧げ持って楽しそうにしています。(^^*

目次

いきなり脱線。これは食べ物か? 化学物質か?

いやー、それにしても「お寿司を作る」お菓子。
びっくりですわ。
 
化学薬品チックな粉を水に溶いて、混ぜ合わせていくだけで、
シャリっぽいムース的な何かができたり、
漬けマグロっぽいゼリー的な何かができたり、
半透明の液体の中に、オレンジ色の液体を
スポイトでポタリポタリと落としたらイクラっぽい何かができたり!
 
そうか。人工イクラってこうやって作るのか…
こりゃ、食べ物じゃないわー(ガクブル
 
そんなことを考える意義深い家族団らんのおやつタイムがございました。

閑話休題⇒自分の教育メソッドは、まだまだ未熟(汗)という体験

それにしても、この二人、本当にタイプが違いすぎます。
 
お兄ちゃんを育てているとき、
「教育実験プログラムは想定通り、順調です!」的な
自信を持っておりました。
 
それまでの教育に関する多少の研究から
「こういう子育てをしたら知的な面で、
 おもしろい成果が出るだろう」という
自分なりの「仮説」のようなものを持っていたんですね。
 
その結果、手前味噌ながらなかなか思ったような結果が見えました。

  • 4歳になるころには、漢字仮名交じりの文章を読めました。
  • 4歳になるころには、アナログ時計で時刻を理解でき、「時間」の概念ができていました。
  • 6歳の頃には「冬至は1年で一番夜が長くて昼が短い日です。カボチャの煮付けを食べます。ゆず湯に入ると風邪を引かないと言われています。」と、保育園のクリスマス会で発言して、先生達の度肝を抜いたと報告を受けました。(スーパーマーケットに貼ってあったポスターを読んで知ったらしい。)
  • 小学校1〜2年生の頃、特に学習塾に通わせてトレーニングをさせていませんでしたが、全国のテストで300〜500番くらいでした。

しかし、その浅薄な自信を、高々な鼻もろともへし折ってくれたのが、7年後に我が家に来てくれた異星人、悠吾くん。
 
彼はまったく「文字」とか「言葉」に興味を持ちません。
 
数字も「8」と「9」を未だに間違えます。
2桁なんてもってのほか!
 
ご飯もちゃんと食べません。(「これを食べないとおやつ抜きだよ!」が殺し文句)
 
45歳の親がついていけないレベルでスーパーやんちゃ&アクティブ坊やです。
 
でも、音楽とダンスのノリノリっぷりと、かけっこでは誰にも負けません。
(※もも組お友だち比)
 
同じ親のお腹から生まれてきても、こうも違うものかね〜と苦笑いの日々を満喫しております。
 
そして同時に、自分の持っていた教育メソッドとか仮説なんて、広い世界では通用しない、超のつく未熟、未完成なものだったんだね、と自分の甘さに苦笑いする今日この頃でございます。

「そのままでいいんだよ」をかみしめる日々

ずいぶん前、小学生の国語教室をしていた時に、なかなか思うように勉強ができないでいるお子さんに手を焼いていた時期がありました。
  
その時、私の心の師匠からこんな言葉をいただいたんです。
 
「子どもは、その子ならではの特性があるんですよ。
 ありのまま、そのままでいいんですよ。」
 
実際、「手を焼く」必要なんてなかったんですね。
そのことは、後で知ることになりました。
 
そして今、まったく兄と似ていない我が子と向き合った時、あらためて
 
「そっか、このままでいいんだ」
 
この言葉をかみしめることで、ようやく悠吾くんと過ごす日々を楽しめるようになりました。
 
そういえば、保育園の先生にも言われましたっけ。
 
「お父さん、この頃(3歳ころ)というのは、
 イヤイヤが激しいし、
 親の思い通りに絶対にいかないものなんです。
 忍耐ですよ。忍耐!」
 
そうなんですね。「忍耐」なんですね。
 
忍耐っていうのは、「子どものことを耐える」のではなく、「焦って思い通りにさせたい自分を耐える」ことなんですよね。

諦(あきら)める⇒涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の世界へ

一時期、子どものイヤイヤにストレスを溜めていたこともありました。
そうなると、子どももイヤイヤが激しくなるんですよね。不思議!
 
でも、「この子のペースでしか育たない」と悟り、「それを待つしかないんだ」と諦められたとき、親子に笑顔が戻りました。
 
なんともまぁ進歩のない親でございまして。(苦笑)
 
「目の前の子がすべて」なんてことは、高校教師時代からの「教育の大前提」だったわけで。
 
それがいつのまにかたくさんの臨床データと科学的データを元に導き出された仮説は、かなりの確度で汎用性を持つなんていう幻想に陥ってしまう…。
 
自分の作った仮説を武器に大上段に構えず、目の前にいる子どもと、ただひたすら向き合う。 ── そんな基本的な真理を見失わないように精進したいと思います。
 
p.s.
仏教の世界では「あやまったこだわりを捨てる」ことが真理に近づく第一歩なんですよね。
それが「諦める」ことであり「あきらめる=明らかにする=真理」である、と。
そのことによってのみ心安らかな世界=涅槃寂静に到達できる、と。
ブッダ様、深い…深すぎる。

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この記事を書いた人

フォーカス・リーディング主宰者

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