祝!大先輩、ノーベル賞受賞から考える「できる人」の発想の転換

昨日は、日本全国、大隅氏のノーベル賞受賞でわき上がってましたね。(^^)
こと私の地元福岡は、やはり大隅氏の出身地ということもあって、ニュース番組でもfacebook上でも、大盛り上がりでした。
 
ノーベル賞を受賞なさるような人達の研究のおかげで、私たちの健康で文化的な生活が成り立っていると考えると、賞金約9400万円というのも納得です。
 
そして、なんとも素敵なことに大隅氏は、賞金を若き研究者の支援に使うという構想をお持ちなんだとか!

自身に贈られるノーベル賞の賞金(約9400万円)をもとに企業などからの協力も得て、奨学金や研究費を提供する仕組みをつくる考えを明らかにした。
2016.10.04 朝日新聞 大隅さん、賞金の使い道は? 「若い研究者の支援に」

なんだか勇気づけられるというか励まされるというか…
 
こういう「できる人」の「できた人」的生き様に出会うと、「自分ももっとがんばらねば」と背筋の伸びる想いがします。
 
 
 
大隅先生、高校は私も同じく福岡高校ですが、大学は東大。そして研究職の先に、今回のノーベル賞。
努力もやっぱり人並み外れたものだったことと思いますが、変な話「無理」はしていらっしゃらないのではないかと想像します。
その才能を遺憾なくというか最高のレベルで発揮した成果として、最高の栄誉を勝ち取ったというところ。
 
ぶっちゃけ、自らの偏見も他人からの誤解も怖れずに断言しますが、東大に行ける人は天才だよなって思います。
教師時代に痛切に感じていたことなんですが、東大って凡人が必死になって勉強して行ける場所じゃないんですよね。
 
でも、「天才」っていう言葉を使うとしたら、きっと誰であれ、何かの領域で天才なんです。
発揮の仕方がよかったかとか、子どもの頃に「意志力」が高まるような育てられ方をしたかとか、そういう条件次第で、その天賦の才能が存分に発揮できたかどうかという問題があるだけで。
 
ある人はオリンピックの舞台で戦います。
ある人は芸術の世界で人々を魅了します。
ある人はビジネスで大成功を収めます。
ある人は勲章を受けるレベルで社会に貢献します。
 
これも、ノーベル賞と同じように賞賛に値するものだと思うわけです。そして、やっぱり自分の才能が生きる場所で長年最高の努力を積み上げた成果だと思うわけです。
 
いや、そんな大げさな話をしなくても、その人のよさを発揮して、その人にしかできない、誰にもマネを出来ないやり方で社会に貢献できる人は同じくらい賞賛に値すると思うわけです。
 
私の友人に、活躍しているステージがすごく高くて、本当に尊敬するレベルで社会に貢献している人がいます。
 
でも、私もその人と違うジャンルで、同じレベルで活躍し、社会に貢献したいと願っています。
世の中に与える影響の大きさは段違いですし、稼ぐお金も桁が違いますが、だから負けているとは思いません。
目標にはしていますし、刺激は受けますが、羨ましいとも思いません。
 
自分が無理なく、自然体で努力ができる世界で、自分の持っている天賦の才能を発揮して、「この世界では誰にも負けない」と自負できるものがあれば、それは本当に素晴らしいことだと、心から確信しています。
 
 
でも、誰もが天賦の才能を持っていたとしても、誰もが社会的に成功できるわけでもない。
がんばってるのに、「自分なりに」というレベルですら満足や幸せを味わえない人もいるかも知れません。
 
その原因がどこにあるのか、特定のしようもありませんが、1つには私たちが「自分だけの価値」を認めることなく社会に出てしまったということもあるかな、と思います。これは強く感じています。
 
例えば、「学歴」による価値判断。
 
学校がいつのまにか「学問的成績で人を評価する」ような場になってしまっています。
私たちも、どっぷりとその価値観に浸かりきっているから、実態のない「人生の勝ち組」を目指して、子どもたちを予備戦にかり出し、その価値観に洗脳していきます。だから「勉強ができる人」=「優秀な人」という評価を持ちがちなんですよね。
そして、その評価の序列の中で少しでも上位に食い込もうとして、その軸以外の場所で何の役にも立たない「お勉強」に無駄に投資をするはめになるんです。
 
「学問」をするという軸での評価に、心と頭を奪われてしまっているわけです。
神さまからか両親からか分かりませんが、授けられた天賦の才能が違うのに、同じ軸に乗って戦いを挑んだら勝てません。
 
歪んだ学校教育の中で狂わされる以外にも、「自分だけの価値」を発揮しがたい場所を選んでしまうことがあります。
 
単なるあこがれで道を選んでしまったり。
でも、「あこがれ」って自分に欠けている部分を見るから生まれる感情かも知れません。
 
周囲の情報、時代のもたらす錯角に煽られてしまっていることもありそうです。
 
親が「あんたなんかには無理でしょ」って、言葉と姿勢で天賦の才能の芽を枯らしてしまったかも知れません。
 
何かの事情で、自分の天賦の才能と違うところでがんばってしまうと、「負け組」になってしまうかも知れませんよね。
だって勝てない土俵に上がっちゃったんだから。(´・ω・`)
 
昔なら「とりあえず大学に行っておきさえすれば」といういい方が通用したかも知れません。
「とりあえず、食うに困ることはないから」って。
でも、今はそうじゃない。
 
だからこそ、なんですよ。
「大学に行くための勉強」、「テストで良い点数を取ることにしか使えない学力」は手放してみませんかって。
古い価値観の軸の上で「できる人」を目指すのは、そろそろやめにしてみませんかって。
 
 
 
そういう古い価値観を手放して、本当に自分が輝けるステージ、自分の才能を測りうる軸の上に立てると、本当に誰だって輝けるんですから!
 
もちろん、それがオリンピックレベルの活躍なのか、地元の人に愛されるというレベルの活躍なのか、それは分かりません。
 
でも、どちらが上かではなく、どちらも素敵ですよね?
 
少なくとも、私はそう思います。
  
自分のやっていることは、もっともっとレベルの低いことかも知れないけど、それで救われる人がいるはずだ、自分はそのために限りある命、手元の時間を注いでるんだって。そう確信しています。
 
でも、だからこそ、少なくとも大隅氏が努力をなさっているのと同じレベルでは、努力をしなきゃいかんよな、とも思っています。
 
あなたはどうですか?
 
あなたのお子さんはどうですか?
 
何かの価値観にとらわれて、本来進むべきだった道をそれていませんか?
 
がんばることに、努力をすることに息苦しさはありませんか?
 
オリンピック・パラリンピックのメダルラッシュの後のノーベル賞受賞。
 
これを機に、自分が輝ける場所ってどこなんだろうって考えてみませんか?
あなたが輝くための鍵はどこにあるんだろうって。
 
必ずあるんですから。誰にでも。
それもだいたい足下に、ね。(^^)
 
そして、ね。
自然体で輝ける場所、自然体でできることで輝ければ、そのままあなたは「できる人」なんですから!

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この記事を書いた人

フォーカス・リーディング主宰者

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