保育園、小学校の運動会は「見世物」か?

昔からよく耳にする学校の「運動会」への批判に、こういうものがあります。
 
「こんな見世物(ショー)みたいにしないで、
 スポーツ大会みたいに当日だけ楽しめばいいじゃん」
 
「こんなに集団演技を重視して、
 ○○○みたいな子どもを育てたいの?」
 
そういうことをいう人はごく一部なのかも知れませんけどね。
まぁ、日本の運動会はやたらとマスゲーム重視の色が強いのは確かですが。
 
先週末には、学校教育が大嫌いで常に批判的な主張を展開し続けている内田良先生が、運動会についてこんな批判記事を発表しています。

[blogcard url=”http://blogos.com/article/191669/”]

そこにはこんな言葉が綴られています。

「ショー」のために子どもたちが本番や事前練習で奮闘するという本末転倒の事態は避けたいものだ。

子どもたちは、日頃の元気な姿を見せてくれればそれで十分であり、私たち大人はその姿にこそ拍手喝さいを送るべきではないだろうか。

わざわざ110年も昔の文献まで引用して、自分の主張に説得力を持たせようと奮闘していらっしゃいます。
 
 
確かにエスカレートする組み体操のように、そもそも誰のためのものか、何のためのものか、その意義を見失った教師の自己満足は否定されなければなりません。
ただ、それは運動会のごく一部のことであって、運動会そのものではありません。
 
そもそも運動会は何のためにおこなうのか?
 
別に「見世物」としておこなわれているわけではありません。
 
それは日常の学校生活、社会生活だけでは絶対に学べない集団生活のあり方を体験的に学ばせるためです。
だから、本番はその「結果のお披露目」に過ぎないのであって、大事なことは日常の練習の中にあると考えるべきなんですよ。
決して「元気な姿を見せてくれればそれでいい」のではありません。
 
そんなもん、家で見てるだろって話。
 
学年ごとに課題は違いますが、「あの子達も、こんなことを成し遂げられるようになったんだな」ってことを確認し、勉強とは全然違う、たくさんのことを学び、成長している姿を確認するんです。
 
だから、保護者として、観覧者として思いを馳せるべきは、この行事を1つ完成させるために、先生達がどれだけ苦労をなさったことだろうってことだし、子ども達自身もどれだけ自分の限界を超える挑戦をしてきただろうかってことなんです。
 
 
うちの4歳の息子が通う保育園の運動会も、この土曜日(10/1)に無事、終わりました。
 
行事のたびに、行動が変わり、言葉が変わる成長の姿に、親としては本当に嬉しいばかりです。
当日の晴れ姿を見て、さらに感激です。
先生への感謝しかありません。
 
この前まで、動物と似たレベルでカオスだった子どもが、見事に演技をしているんです。
 
「前にならえ」という言葉も「前の人についていく」という言葉すらも、ほんの2年前までは通じていなかったのに、今は「小さく前にならえっ!」て号令がかかったら、4歳児たちがすすすっと列を整えていくんですよ。
 
先生達のここまでの尽力はどれほどのものかって思うわけです。
感動の涙もこぼれようってもんですよ。
 
 
「それも日常の教育の一環」といえばそう。
 
でも、子ども達だって何か目標があった方ががんばれます。
 
先生達も半年後、1年後の行事を見越して、いろいろなトレーニングを積み上げさせます。
その行事々々は、学校や園のトータルの学習目標に沿ってデザインされ、配置されているんです。
 
親・家庭にはそれはできませんからね。
自然に育っても身につかないことがたくさんあるんですよ。
 
 
もちろん、それと組み体操の過激化は別問題。
軍隊式に、そこについていけない子達を叱責したり、排除したりといった非教育的な問題もあるかも知れないし、それは何とかしなければなりません。
 
でも、そこは配慮すべき「部分」であって、トータルでは「運動会ってそういう意義を持った大きな行事」なんですよ。
 
そう思って運動会をもう1度見直してみてください。
 
先生方の血のにじむ努力、子ども達の、自分の限界を超える努力に思いを馳せてみてください。
 
きっと、運動会を見る眼が変わりますよ!

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この記事を書いた人

フォーカス・リーディング主宰者

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